本小説はフィクションであり、登場する人物、団体等は全て架空の物です。尚、実在の地域、地名、団体、組織等が登場する場合であっても、それらは全て虚構の世界を形作っているものに過ぎず、現実の世界とは何ら繋がりがありません。  発行者:シュマリ

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2008年03月12日

第38回 件名:シュマリより、コーヒー豆を焼酎に漬けた珈琲酒にしておきます。


2003−10−27 18:33
件名:シュマリより、コーヒー豆を焼酎に漬けた珈琲酒にしておきます。



冬のソナタさんへ


『100万回生きたねこ』が焔さんの好きなもう一つの絵本だったなんて。・・・・・
僕はほとんど絵本を見ないのに何でまた、どういうこと!!??
偶然でなかったら、何?
超能力?
僕は使ってないよ!
封印してるから!???

立ち寄った本屋にたまたま有ったので、また立ち読みで内容を確認してきました。
僕がこの絵本で一番感じた事は、「生きるとはどういう事なのか」ということです。
そしてその中には「愛するとはどういう事か」ということも含まれます。
その解答の一つがそこに示されていました。
これは僕がずっと考えてきて到達した結論とほぼ同じものです。
いつかお話ししたいと思っていたので、絵本を解析しながら話して行きましょう。

まず、前半の色々な飼い主とのエピソードはたいして意味はありません。
ここでは飼い主みんなに可愛がられたけれど、主人公のトラ猫は飼い主の事が「だいっきらい」で、100万回も死に、そして生き返ったというものです。
トラ猫は飼い主に飼われる身(或る意味、囚われの身)に甘んじていて、自分の人生(ネコ生)を生きていませんでした。
飼い主に為されるがまま、全く受け身のネコ生だったのです。
だからいくら可愛がられても、飼い主を愛する事も、他の者を愛する事もありませんでした。

次に、トラ猫は飼い主がいない野良猫として生きるようになります。
トラ猫は「自分のねこ」となったのです。
ここからが後半です。
自分が主人(飼い主)である主体的なネコ生が始まりました。
自分の生き方を自分で決めて良いのです。
でもトラ猫はまだ自分のネコ生を生きてはいませんでした。
猫の飼い主(所有者)として、立派な毛並みの自分を大好きだっただけです。
毛並みが良く、100万回も生き、死んだ猫には、多くの結婚したがるメス猫が集まり、チヤホヤしました。
でも自分だけを大好きなトラ猫は、そんなメス猫たちを全く相手にしません。

多くのメス猫がトラ猫に群がる中で、ただ1匹白い猫だけは関心を示しませんでした。
その事が気に入らないトラ猫は、白い猫の歓心を得ようと、100万回のネコ生の話を語り、或いは3回転宙返りをして見せたりしました。
それでも白い猫は全く相手をせず、「そう。」と言うばかりです。
恋愛テクニックで無関心を装っていた、といった話ではありません。
白い猫は、自分のネコ生を生きていなかった時のトラ猫などには全く興味がなかったのです。
だからトラ猫は何も白い猫に与えられなかったし、実は与えようともしていませんでした。
「自分のねこ」の自慢をしていただけです。

ある日トラ猫は、「100万回死んで、・・・」と言いかけてやめて、ただ「そばにいてもいいかい?」と白い猫に聞きます。
白い猫は「ええ。」と答えます。
トラ猫は今の純粋な気持ちだけを伝えました。
ここで初めてトラ猫は自分の人生(ネコ生)を生き始めたのです。
白い猫は、そんなトラ猫を受け入れたのでした。
白い猫が求めていたのは、100万回生きて死んだ立派な猫ではなくて、一緒にいてくれるただの野良猫だったのです。
人(ネコ)が人(ネコ)を好きになるとはどういう事でしょう?
それは理屈ではありません。
どうしてだか説明できないけれど、一緒にいたい、そういう気持ちが生まれた時、好きになっているのです。
トラ猫が白い猫に惹かれたのは、無視されたから、といった単純なことではありません。
それはきっかけに過ぎません。
白い猫は、他人に与えられた立派なネコ生など見てはいませんでした。
トラ猫の本質だけを見ようとしていました。
そしてまた、白い猫は他人(トラ猫を含む)に立派なネコ生など与えられたいとは思っていなかったでしょう。
素直な自分を生きたかったはずです。
だからトラ猫は白い猫のそばにいたいと思ったのです。
飾りのないありのままの自分として。
そうしていられるのは、白い猫のそばだけだったから。

そしてトラ猫はずっと白い猫のそばにいて、子供も沢山生まれました。
トラ猫は自分の事よりも白い猫や子供達の事が好きになります。
彼は初めて自分以外の好きな対象を見付けたのです。
子供達はやがて大きくなって、それぞれに巣立って行きます。
トラ猫は、多くの子供達を立派な野良猫に育て上げた事に満足し、あとは白い猫と一緒にいつまでも生きていたいと思いました。
でも年を取った白い猫はやがて死んでしまいます。
その死を悲しんで、トラ猫は初めて泣きました。
そして100万回も泣き、泣き止んだ時には動かなくなりました。
そして2度と生き返らなかったのです。

失った事に因って初めて、その対象が自分にとってかけがえのないものであったという事に気づかされる事がしばしばあります。
その時「愛」に気付くのです。
恐らく、トラ猫も彼女の存在の大きさ(自分の中で)に気付き、泣き続けたのだと思います。
「彼女がいない人生(ネコ生)なんて考えられない。」
「もう2度と会う事が出来ないなんて耐えられない。」
「死んでしまいたい。」
そう思ったはずです。
そんな風に思う対象こそ、「愛している」ものです。
「愛」とは決して失いたくない対象に対して向けられるものです。
大切で大切で、胸にじっと抱きかかえていたいと思う気持ちです。
だから人は愛するものを抱き締めるのです。
失いたくないが為に、時には自己犠牲すら厭いません。

失いたくない(かけがえのない)対象に向けられるものが「愛」だという定義に対して、この絵本の中ではもっと端的に純粋な形で表現されています。
他には何もいらない、ただずっと「そばにいたい」、それだけです。
これほど純粋で明快な「愛」の定義が有るでしょうか。
「そばにいたい。」
これほど究極的な「愛」の言葉はあるでしょうか。

「そばにいたい。」・・・・・「ただ、そばにいたい。」・・・・・「ずっと、そばにいたい。」・・・・・唱えてみて下さい。
・・・・・・・・・・その美しさに、僕は涙が溢れてきました。

考えてみれば、犬や猫が死んだ時、「俺をおいてかないでくれよ。・・・・・そばにいてくれよ。」そう呟いていました。

ところで、トラ猫の飼い主だった人達は、トラ猫を「愛して」いたのでしょうか?
「愛して」いたのかもしれません。
でもその「愛」は所有物に対する自分勝手なもので、純粋なものではなかったようにも思われます。
これを「愛」といってもよいものか、「そばにいたい。」の純粋さに比べると、考えてしまいます。

さて、愛するものを失った者は、どんなに苦しくとも、その喪失感に耐え、辛さに耐えて、生き続けなければなりません。
時の経過が苦しさを軽減させてくれはしても、決してそれが無くなってしまう事はありません。
それは、人生に(心の中に)傷のようにして残っていきます。
そして何かの拍子に疼いてまた苦しくなります。
それと共に、いつか「愛する」対象に再び会える事を待ち続けています。
それは自分が死んでからの事かもしれません。
来世の事かもしれません。
僕は以前≪愛は時間が経ったら消えてしまったりするものではない≫と書きました。
ずっと≪持ち続けているもの≫です。
一方、生き続けていれば、新たに「愛する」ものにも出会うでしょう。(異性に限定して言っているのではありません。)
そして他の愛するものを失ったり、新たな愛するものも失うかもしれません。
そのたびに辛く、苦しく、悲しい想いをしなければならないでしょう。
こうして、人生に傷のようなものが増えてゆきます。
「生きる」とは、愛するものに出会い続ける事、愛するものを失い続ける事、愛するものを失う辛さに耐え続ける事、人生の(心の)傷が増え続けていく事、それでも「愛」を持ち続ける事、なのです。

『時をかける少女』の和子の深町に対する「愛」、焔さんのおじいさんへの気持ち、トラ猫の嘆き、僕が「生きる哀しみ」と言った事柄、こんな風にして理解出来ませんか?

生き続けていれば、いつの日か人生の(心の)傷が全身で痛み出して、もう耐えられないと思うような事もあるかもしれません。
それに耐えられなくなった時、人は死ぬしかないのです。
おばあちゃんが泣き続けていたのは、正にその事だったのです。
愛するもの達(肉親や、生まれ育った家や、豊かで美しい自然や、心許せる人との付き合いや、その他多くの事・・・)を失った辛さ、苦しさ、悲しさに耐えられなくなっていたのです。

100万回生きた猫は、ずっと愛するものを見付ける事も出来ず、当然それを失う事もなく、人生(ネコ生)を生きてはいませんでした。
生きていなかったからこそ何度も生き返ったのです。そして100万1回目(?)に、焔さんも仰っているように<凝縮>して人生(ネコ生)を生きてしまいました。
彼女を失ったトラ猫はもうその痛みに耐える事は出来ませんでした。
まして生き返って、再び同じような苦しみを受けようとは思わなかったでしょう。
100万1回目は最後であった訳ではなくて、猫が自ら最後にしたのです。
充分生きる事に満足したのです。
彼女への「愛」を持ち続ける事だけで充分幸せだったのです。
いつまでも、死んだ彼女の「そばにいたい。・・・・・」

この絵本にはまた「生きる」ということと、その「幸せ」についても書かれています。
誰に支配される事もないかわりに、平凡でごく当たり前な人生(ネコ生)。
ただの野良猫として好きな人(猫)と一緒に生活し、子供を育てて次の世代に命を繋ぎ、穏やかに年を取って死ぬ人生(ネコ生)。
「生きる」という事はそんな平凡でシンプルな事の繰り返しなのであり、その「幸せ」とは、平穏無事にそんな人生を送れる事なのです。
「幸福の青い鳥」は、日々の何でもない生活(生きる営み)の中にこそ棲みついています。
だからこそ、子供を育て上げたトラ猫は満足できたのです。
「幸せ」だったから。
その時きっと、人生(ネコ生)での役目を果たした自分自身を「愛して」いたはずです。

焔さんはこの絵本を読んで泣かなかった?
僕はこのトラ猫に、自分を重ね合わせてしまったのかもしれません。
平凡でシンプルで、純粋なごく当たり前の人生を心穏やかに送りたい。
「幸せ」になりたい。・・・
でも人の周りには様々な事柄が取り囲んでいます。
純粋でいようともがくだけで純粋なままではいられない自分。
人も自分も愛せない自分。・・・
或いは、僕が愛し続けているものの事を思い出したのかもしれません。
何て言ったらいいのだろう。
ただ、読み終わってとても幸せな気分になりました。
焔さんはどうだった?
何に<グっと来てしまった>の?

僕は泣き虫という事はないと思います。
男に“泣き虫”とは失敬な!(あはは。)
子供の頃は、何かを訴えるのにうまく言葉が出なくて、或いは自分を理解されなくて泣いた事は有ったけれど、大人になってからは自分を表現する技術を訓練したからね。
感激屋さんでもないし。
人前で泣くなどという事はほとんどあり得ません。
ささやかで美しいもの、純粋で真っ直ぐなもの、或いはそうしたものが穢されたり、壊されたりすること、そんなものや状況に涙する事は時々あるよ。

≪何も、誰も信じていなかったかも≫というのは、特別な出来事があった訳ではなくて、色々な積み重ねの中で、そんな風に思っていた時期も長くあったと言う事です。
バブル以降の事も少し書いたけれど、世の中の進む方向と、自分の考えている価値とがどんどん乖離していってしまうし、自分が出来る事も分からず、自分を理解してくれる人も近くにおらず、自分にも全く自信がなかったから。
価値観・世界観の違いは埋めようがない、と思っていました。
最近はやりの本で言うところの「バカの壁」です。
それに、合理的・論理的思考では、疑うことから始まるから。

今は、自分以外は「馬鹿」で「何も分かっちゃいない」と考えるのは間違っていると思っています。
部分的でも共感を土台に少しでも理解を深めていく努力が必要だと考えています。
山歩きを始め、多くの犬や猫の一生に付き合い、おばあちゃんの最後にまで付き合って、今やっと人に向き合う方法の答えが一応得られたというところです。
焔さんはどういう時に人を信じられなくなったの?

「どうしてこんなに悲しいんだろう」は吉田拓郎が自分の作品の中で一番好きだと、或るテレビ番組で答えていたものです。(1年位前かな。)
最近楽譜が手に入ったので、時々歌っています。
僕の気持ちそのものです。
秋の季節感にも合っている。
古いフォークなんか持ち出してもよく分からないか?

弾き語りで歌いたくなる楽曲を探すと、70年代から80年代の物が多くなってしまうんだよね。
最近はこの年代の物が結構カバーされていて(ヒップ・ホップになっているのも有る)、ドラマの主題歌になったり(ユーミンやカーペンターズが使われていて驚いた)、CMで使われたり(チューリップも有ったな)、楽譜も発売されてきている。
アコースティック・ギターの潮流もあるようで。
ま、常に10年遅れで聴いている僕にとっては、時代が一回りして追いついてきたような感じ。

<シュマリさんもこれから見つけなくちゃぁね!エミコちゃんを見習ってね。>・・・・・とうとう言われてしまった。
僕は運命に任せることにするから(去る者は追わず、来る者は拒まず、でいくか?)、焔さんは頑張ってね。
・・・・・それにしても、エミコちゃんとのキスの味を覚えていないのがつくづく惜しくなってきた!

捻挫は癖になると、小石やちょっとした段差でも脱臼してしまいます。
脱臼するタイミングというのはほとんどいつも同じだから、実験して、そのタイミングで足首を内側へ引いて、脱臼を防ぐ練習をしましょう。
更に立って足を下に付けたまま、痛いのを我慢して、足首を内側と外側に交互にゆっくり少しずつ曲げていきます。
そうして、足首の柔軟性を回復させます。
後は、足を上げて、足首を内側と外側に出来る限り曲げ、力を入れたまましばらくその体制を続けます。
何度か繰り返して、足首を動かす筋肉を鍛えましょう。
僕の場合、足を地面につけた状態で少しずつ体重を掛けてしまうけどね。
毎日少しずつ、痛みが完全に無くなるまでには何ヶ月も掛かりますよ。
痛みが有るからといって動かさないでいると足首の可動範囲が狭くなり、却って治りが遅くなります。
歩く時も正しい歩き方を常に意識して、かかとから着地し、親指の付け根で蹴り出すようにしていれば、捻挫する機会も減るでしょう。
かかとの高い靴、底の厚い靴は厳禁だね。
でも捻挫していて、フラメンコは大丈夫ですか?

郵便でも、電話でも、テレパシーでも、お好きにどうぞ。


TEL ○○○−***−○○○○ のシュマリより



P.S.
焔さんは、栗の皮を剥くのはうまいの?
お母さんの実家が果樹園だなんて、夢のようだなぁ。
札幌からは近いの?
今年は天候の具合で出来はどうだったんだろう?

毎年行くのに今年はまだブドウ狩りに行ってません。
これから、ブドウ狩りと、リンゴ狩りの連チャンにでも行って来ようかな?

冷凍のホッケも見た事有りません。
干物ばかり。

「可愛い娘には声を掛けよ」って言い習わされてない?
・・・ちょっと挨拶したり、たわいもない事を話す関係って、社会にも人間にも必要だよ。
寅さんが羨ましい。

今回は頭脳も、精神も、体もハードだった。
初めてきちんと読書感想文を書いたような感じ。
頭の中が「ねこ」でいっぱいだった。
つかれた〜〜〜!
posted by シュマリ at 17:22| 北海道 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | “冬のソナタ”さんへの手紙 第1部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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